07日 5月 2020
 中国の瀟湘しょうしょう八景に倣ならって、金沢八景詩が作られたのは江戸時代のことでした。その中の一つ「小泉の夜雨」は、今では想像もつかないほど、海が入はいり込んでいた宮みや川がわ流域の入江の傍にあった、と言われています。大きな瀟湘の松の下にあった祠ほこらの風景は、巨木の松が枝を広げて、晴天の夜でも、梢こずえから滴しずくが垂れるほどに茂っていたそうです。 その山の裏手にあったのが手子(てこ)神社(じんじゃ)です。現在の社殿は関東大震災後に再建されたものですが、もともとは瀬戸神社の分霊を勧請(かんじょう)したのが起源で、創建(そうけん)当初(とうしょ)は宮(みや)ヶ(が)谷(やつ)にありました。それを釜利谷の領主伊丹(いたみ)氏の末裔(まつえい)、智楽院(ちらくいん)忠(ちゅう)蓮(れん)権(ごんの)僧正(そうじょう)が、現在の地に移築したものです。小泉の祠(ほこら)「弁財天も、手子神社境内(けいだい)の北側に作られ、広かった入江は宮川となってしまいました。  手子神社の狛犬は、少し変わっています。かなり急な階段を上って神社の前に立つと、両側に狛犬が立っています。  狛犬が立っているのは、台ではありません。こんもりとした山です。そして驚くのは、崖の下に獅子の子供が、親を見上げているのです。これは紛れも無く、獅子の子落としです。  横にある石板に彫られているのは、慶応三年。この時は「ええじゃないか」の踊りが流行り、大政奉還が行われ、王政復古の大号令が下った年でもあります。それに、忘れられないのは、みんなに愛された英雄坂本龍馬が斬殺された年でもあります。